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21世紀数学の未来像 第19回

「素人科学者の勧め:その1    ~二宮忠八と二宮暁~ 」より 

「現代数学」2014年10月号(現代数学社), 二宮暁(ペンネーム)


高木貞治  高木貞治は「近世数学史談」[1] の中で
「アーベルもガロアも学士院の尻の重さの下に苦悶した.内気なアーベルは隠忍したが,高慢なガロアは咆ほう哮こうした.そこで近世数学史上のローマンスが生じた.アーベルもガロアも処世に失敗したのである.
時代を超越するにも程合いがあって,二十年,三十年の超越は危険である.」と書いています.

 時代を超越し過ぎると時代がついて来れないということでしょう.高木貞治は続けて
「アーベル, ガロアの足が軽過ぎたのだ.よい手本に,かのゲッチンゲンの爺さんがある.
賢明というか独善というか,先生てんで世間を相手にしない.求むる所のない彼には弱味がない.むしろ求められる位地の強味を―意識してか,意識せずにか―幾分自家の都合に利用した跡が絶無で あったろうか」と書き綴りました.
ガウスのように天文学者という職を得て,本心はノートにのみ記せばよいということかもしれません.

 別段,ガウスがアマチュア数学者というつもりはありませんが,アーベルやガロアのように数学でめしを食おうという意思はなかったかもしれません.
今回は,少し過激なバージョンの素人数学者の勧めです.


遠山啓  遠山啓は1969年に[2] で
「労働時間はますます短縮され, 土曜休日が普遍化するのも近い将来であろう.人びとはまず余暇をパチンコ・スポーツ・旅行にふり向けようとするだろうが,いずれはあきる時がくる由とくに平均寿命が長くなると,余暇をもてあました老人があふれてくる.外的なものにあきてくると, 自然に内的なものにひかれていくのは人間の本性である.や がて,人間の目は芸術や学問に向けられ, “ シロウト画家”,“ シロウト・ピアニスト”,シロウト考古学者” …などというものが輩出するであろう.そのなかで,“ シロウト数学者” も数多く生まれてくるにちがいない」と予言しました.
この予言は少なくとも数学以外は当たったのではないかと思います.

 遠山は更に「数学者が大学の先生になってめしを食っているというのは,ごく最近のことです.だいたい19世紀からだろうと思います.それ以前は数学者というのはアマチュアであり,それだけではめしは食えませんでした.」として,
「今日の大学にある数学教室はとくに大学のなかになければならない必然性はなにもない.図書室さえあれば, どこに行ってもさしつかえないだろう.」な どと書いています.

 2014年,Wikipedia によって多くの専門用語の解説が読め,講義録なども簡単にインターネットで手に入ります. ゴルフのクラブ代や,テニスのラケット代,油絵の絵の具代程度お金をかけられるならば,abebooks や amazon などで,神田に行かずとも地方でも簡単に名著と呼ばれる数学書を手に入れることができます.更には古書の幾つかは電子化され,共有化されて いますし,プレプリントサーバーarXiv も充実しています.
遠山流に言えば, 大学の数学教室に属していなければ数学ができない時代は終わったということかもしれません.






 数学者ではありませんが,明治の素人科学者のひとりに二宮忠八という人物がいます[3].
私の遠縁です.
二宮忠八
1889年,カラスの滑空の観察により飛行原理を見抜き,その2年後には5 cm弱の模型動力飛行機を開発し,ゴム動力によるプロペラの推進力により3m の滑走の後,10mの飛行を成功させました.
それは飛行原理の実証であり,有人飛行へ の扉が開いた瞬間でもありました.1903年のライト兄弟の人類初飛行の12 年前の1891年,忠八24歳のときです.
忠八はそれを飛行器と命名し,更にその2年後には有人飛行を目指し「玉虫型飛行器」の設計図を完成させました.その設計図はライト兄弟のフライヤー1 より遥かに現代的な飛行機を想起させるものでした.もちろん,動力の位置など課題も多くありましたが,時代を超 えたものであったのも確かです.
 忠八は軍部の力を借りてこの飛行器の実現を夢見,二度陳情しましたが,「人が飛ぶなどというのは西洋でも聞いたことがない,陳情は飛んでからにしろ」とすげなく却下されました.

 忠八の強さは,「それならば自力でやればよい」とあっさりと,素人科学者として進む事を決めたことです.もちろん,忠八に苦悩がなかったわけではありません.それでも研究資金を貯めるために大日本製薬株式会社に就職し,市井の民として資金作りから始めたのです.

 「世界が認めなければ自力でやればよいのだ」という姿勢には今も見習うべきものがあります.ライト兄弟の有人初飛行は世界に知れ渡ることなく,忠八は1903 年には関連会社の支配人に昇進するなど業績を挙げて,貯めた資金を基に1907 年頃から研究を再開しました.仕事をしながら,帰宅後や休日に飛行器研究を行ったのです.1908 年には実験用の土地も購入し,馬力と 重量の視点からエンジンの選定も終えていました.
そして1909年10月ライト兄弟の有人初飛行を報じた新聞が忠八の目にとまることとなりました.
やりようのない悔しさと怒りに駆られた忠八は作成していた飛行器を叩き壊し,きっぱりと飛行器の研究をやめてしまいました.
飛行器
 後年,功績が再評価された後に,忠八は飛行によって人の命が奪われることを憂い,神社を立て神主となって,飛行の安全祈願をするようになりました.
京都の京阪電鉄八幡市駅の近くの飛行神社では日本初の動力飛行の日である4月29日に,全世界の飛行の安全を社から祈願する例祭が厳粛に毎年行われております.



 「認められない」ことで苦悩する研究者に時折出会うことがあります.
決して万人に勧めるつもりはありませんが,「認められなければ自分でやればよい」という考え方もあるように思います.
数学が好きで止められないならば,例えばプログラミングをしながら数学研究を行なうことも現代ならできますし,更に当時素人数学者だったワイエルシュトラウスが出版したように Crelle's J などに論文を出版することも19世紀同様にできるのです.




【参考文献】
[1] 高木貞治 「近世数学史談」 岩波文庫 1995年
[2] 遠山啓  「遠山啓著作集数学論シリーズ〈6〉数学と文化」  太郎次郎社 エディタス 1980年
[3] 吉村昭  「虹の翼」 文春文庫(新装版)  2012年



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