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再生への数学 第14回

「ヒルベルトとミンコフスキー」より 

「理系への数学」2012年9月号(現代数学社), 二宮暁(ペンネーム)


 今回は「クーラン・ヒルベルト」[1]の生まれた背景として,ヒルベルトとミンコフスキーについて書きます[2].

 ヒルベルトは1862 年に生まれ,ケーニヒスベルク大学にて数学を学びました.ケーニヒベルグ大学では, 生涯の畏友となったミンコフスキー, フルヴィッツと出会います.
ミンコフスキーはヒルベルトより2歳年下の1864年生まれ,18歳で自然数の5個の平方数の和による表現に関するパリ科学アカデミーの懸賞問題を解き,ヒルベルトに出会ったときにはすでにケーニヒベルグでは有名人でした.
フルヴィッツは少し遅れて若い助教授として赴任し,二人に出会います.1900年の「ヒルベルトの23の問題」の講演を後押ししたのはミンコフスキーとフルヴィッツでした.

ヒルベルト

 ヒルベルトは,博士論文として不変式論に取りかかり,ケーニヒスベルク大学で1886年から1895年まで私講師,助教授として過ごしながら,約10年不変式論の研究を行います.その研究は不変式論の権威であったにゴルドンに「これは数学ではなく神学だと」と言わしめた極めて現代的で斬新な方法により, 古典的な問題を解くというものです.
ヒルベルトは代数幾何の零点定理やイデアル論や可換論を含むそれらの研究を1890年,1893年に論文として出版しました.
不変式論の業績から,1895年にクラインによりヒルベルトはゲッチンゲン大学に招聘されます.直後にドイツ数学会のための数論の報告書を依頼され,不変式論での抽象化に沿って,デデキントのイデアル論を基礎とすることで,数論を書き換える報告書を仕上げてゆきます.それが後にヒルベルトの代数的整数論と呼ばれるものとなるのです.  
その後,ヒルベルトは1898年冬に有名な幾何学の基礎付けの過程において,公理化を目指した講義をします.それが「幾何学の基礎」となります.
更に,翌年には最小原理の研究に移り,リーマンによる「最小原理による閉リーマン面上の有理関数の存在定理」の証明の欠陥を補う論文を1899年に発表し ます.

 他方,ミンコフスキーは博士号をとった後にボン大学に移り,1894年はケーニヒスベルク大学助教授,1896年のチューリヒのスイス連邦工科大学を経て,ヒルベルトの力により1902年にゲッティンゲン大学に教授として赴任します.チューリヒではアインシュタインを教えています.この間ミンコフス キーとヒルベルトは手紙等などで,近況を報告しあい,また考え方を共有していました.

 ミンコフスキーは学生時代ヒルベルトに流体の研究を推奨するなど,物理学に強い関心を持っていました.電磁気学と力学の融合も視野に入れた理論物理の公理化を目指したヘルツの影響もあってか,ボン大学ではマクスウェル方程式に関する研究も行っていたようです.そもそもマクスウェル方程式は,1960年以降のゲージ理論にまで抽象化されないとその本質を捉えることはできない概念です.
フッサー ルと異なり,ミンコフスキーは,物理的実体は極めて抽象的な数学を通してのみ理解されるべきものという視点を持っていたと思われます.
 1900年にヒルベルトは問題の6番目として「物理学の公理化」をあげましたが,これはミンコフスキーの影響です.
ミンコフスキーは物理の研究を行う一方,懸賞問題の延長線上として,ミンコフスキーの2 次形式として知られる整数論の研究を行い,1896年に『数の幾何学』を著し,同時にヒルベルトの代数 的整数論に関する論文の作成にも大きな影響を与えました.


 ミンコフスキーもヒルベルトも, 新しい視点によって古い数学を読み替えることによって全く新しい数学的な結果を得ることができるという実体験をしていたので,古い数学を全く新しい数学として再 構築し,新しい皮袋に入れて行くべきと考えていたと思われます.
 ミンコフスキーはクロネッカーの影響で当時タブー視されていたカントールの集合論の講義をしていましたし,
またヒルベルトはケーニヒスベルグ大学で私講師であった時期に,有名な「点,直線,それに平面と いうかわりに,いつでもテーブル,椅子,それにビールジョッキというように言い換えることができるようにならなければならない」という主張をし,公理論への道を目指していました.

ミンコフスキー  物理という実体に触れていたミンコフスキーもまた,例えば目に見えない電磁場を表現するのに,直感から遠い言葉によってのみ現実が表現できると感じていたのではないかと思われます.

 ミンコフスキー,フルヴィッツは,1900年のパリにおける国際数学者会議に向け,20世紀の幕開けとなる会議で数学の新たな可能性を述べるべきとヒルベルトに強く勧めます.それによりヒルベルトは冒頭で述べたように「ヒルベルトの23の問題」発表することとなるのです.


 もちろん,ヒルベルト自身も新しい数学の百科全書的な集大成を提示することに使命感を感じていたと思われます.その背景にはゲッチンゲン大学という大学の位置と,クラインから精神的に受け継いだものがあったと考えられます.
 新たな枠組みで様々なことを定式化し直すことにより,多くの古典的な問題が解決してゆく様を全数学,そして,全科学に対して予見していたものと感じます.19世紀末から襲った集合論の矛盾に対してもヒルベルトは極めて楽観的な立場で,新たな枠組 みの構築を模索していたようです.それはミンコフスキーも同じであったと思われます.新たな定式化はそれらの矛盾も解決してゆくと考えていたのです.

 1902年からのゲッチンゲンでの共同研究として,ミンコフスキーとヒルベルトは物理学の数学的な研究を取り上げます.
アインシュタインの特殊相対性理論の発表後,実に早期にその本質を数学化していったのは,既に同様の研究をしていたからです.
二人にとって,数学が科学の女王として全科学を記述できるようにすることが一つの目標であったのではないかと思われます.
数学の抽象化によって数学は大きく変貌を遂げたように,新たな数学によって世界自身の記述も変移されてゆくべきと感じたのだろうと推測されます.


 しかしながら,1909年ミンコフスキーは志半ばの44歳の若さでこの世を去ります.ヒルベルトが畏友の突然の死を重く受けとめたことは明らかです.ワイルが「数学の輝かしい業績とは比べ難いものである」と称した成果を得るために,その後ヒルベルトは物理へ傾倒してゆきます.それは「数学がすべての科 学の基礎であるべき」という誇りと使命感と,そして何より,ミンコフスキーの意思を継ぎたいという強い意志からであったのだろうと感じます.
 ゲッチンゲンには物理学の有能な学生や研究者も集い,ナチスによるユダヤ人の迫害が激しくなるまで,物理と数学の中心となって行きました.


[1]の「クーラン・ヒルベルト」はそのような背景の中で生まれました.
クーランは1905年に大学生となり,ゲッチンゲン大学を訪れ,1910年にはヒルベルトの助手となります.ヒルベルトがヒルベルト空間やヒルベルト変換として名の残る積分論の研究を 行っていた時期です.クーランは1924年にヒルベルトから学んだことをヒルベルトに捧げるという意味で「クーラン・ヒルベルト」と呼ばれる物理数学の名著を著しました.
そこにはミンコフスキーとヒルベル トとが語り,思い描いたであろうと友情と青春の軌跡が見えるように感じます.




【参考文献】
[1] R. クーラン, D. ヒルベルト(丸山滋弥ら訳)「数理物理学の方法」(1-4) 東京図書 1995年
[2] C. リード(彌永健一訳) 「ヒルベルト」 岩波現代文庫 2010年



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