松谷茂樹のホームページへようこそ 

21世紀数学の未来像 第2回

「言葉としての数学 (芸術と数学)」より

「現代数学」2013年5月号(現代数学社), 二宮暁(ペンネーム)


セザンヌ
 1894 年に「りんご一つでパリを驚かせたい」と言って新たな美の世界を示したのはセザンヌでした.[1]
藝術は表現です.ドラマティックなストーリー性や刺激的内容よりもその表現方法で 人は感動するのだとセザンヌは言います.セザンヌは,店先で売られるりんご1つで人々を魅了,感動させました.
セザンヌ展と言えば老若男女が今も遠方より,りんごを見に来ます.

 「数学は言葉」と言った際,「いや,数学はもっと精神的なものだ」という反論が聞こえてくるように感じます.
それでも数学は言葉だと私は思っています.それは,「言葉」には詩歌も含めた情念をも表現する力があるという意味です.


志賀直哉の「暗夜行路」,「和解」,「城之崎にて」どれも美文と呼ばれるもので, 感動をもたらせます.
その内容がつまらないというつもりは決してありませんが,「暗夜行路」のあらすじは21 世紀にお いては奇異にうつりますし,「和解」に至っては父親との特殊な確執を和解するという個人的なものです.
しかし,それがとても良いのです.「暗夜行路」,「和解」を文学として認識する点はそのあらすじよりも,実子の生死な どのエピソードを通した心理描写や情景描写です.それらによって物語りは深みと厚みを持ちます.

志賀直哉

 例えば,「暗夜行路」[2]で主人公の謙作が,幼馴染みの愛子との婚姻が適わず, 陰鬱とした日々を送る中で, 飛行機の日本での初飛行を思い出して,
「人類が滅亡するという事を吾々は知っている.が,それが吾々の生活を少しも絶望的にしない.それに想いを潜める時に淋しい堪えられない感じを起すことはある.然しそれは了度無限を考えて変な淋しい気持に導かれる,それと変りない感じである.実際吾々は人類の滅亡を認めながら感情的にこれを勘定に入れて いない.この事実は寧ろ不思議だ.そして吾々は出来るだけの発達をしようと焦っている.これは結局,吾々は地球の運命に殉死するものではないという希望を何処かに持っているからで はないか.」
と吐露します.
前半のこの部分を受け,自身の不幸を克服する物語の終盤において,謙作は全く別の境地となり,
「人間が鳥のように飛び,魚のように水中を行くという事は果たして自然の意志であろうか.こういう無制限な人間の欲望がやがて何かの意味で人間を不幸に導くのではなかろうか.」と言い
「人智におもいあがっている人間は何時かその為酷い罰を被ることがあるのではなかろうかと思った.」と続けます.

 これらの文章は文庫本で500頁の中にあるからこそ生きるのです.内容如何は別にして,例えばこのような主人公の考えを通し,一文学者の意見が全人類の言葉のような印象も持ち,感動を生んだりします.それがレトリックです.
 つまり,「文学とは言葉なのだ」という一文は恐らく,誰もが納得するものです.これと同じ意味で「数学は言葉だ」という文は数学を少しも貶めてはいないと思っています.



 1993年の数理科学「数学の方向 ― 20世紀における発展から」での杉浦光夫との対談において[3]佐藤幹夫は
「数学というものは元来ランゲージなわけでしょう. 自然を記述するのが数学だ と,物理をやるにしても何をやるにしても, 人間の自然言語ではとても表現しきれないわけですよね.いわゆるアリストテレスやなんかのロジックでも足りないわけで, 数学というもののほうが, より洗練されたランゲージだと思うんです. そしてランゲージというのは, 僕は代数じゃ ないかと思うんです.」と述べています.



 例えば,明日香村を訪れ,丘のように低い天香具山を眺めながら,

  春過ぎて夏来たるらし白たへの
          衣干したり天香具山

と詠むというのが,文学を感じる旅と言われるものです.
万葉の世界のスケールの小ささと古代の生活の広がりを感じることができます.

 その事と「群の集合への作用」を知った後に万華鏡を眺めたり,フラクタル幾何を知った後に雲を眺めたりする事は,対比できるものと思います.
整数論を学んだ後の素数の輝きや,可換環論を学んだ後の円やその他の代数曲線の認識の広がりは,それらを学ぶ前とは全く異なる風景です.


 記号論的に言えば,シニフィアン(表すもの)とシニフィエ(表されるもの)は分離不可能で,言葉なしに世界は語れませんし,思い描くことすらできません.言葉の獲得はそのまま概念の獲得を意味します.
数学の与える喜びはやはり,数多の数学的事実,自然現象を表現できるようになる喜びであり,そのことによる自然観,数学観の大きな変質にあると思っています.

 リーマン予想の今後についての杉浦の質問,議論の後にヴェイユ予想の証明が解かれたことについて,佐藤は[3]
「たとえば合同ゼータの場合に,カーブの場合はヴェイユがやる, それから一般の場合にドゥリーニュがやったわけですか. それは非常にきれいな, いい結果だけれど, どうなんで しょうかね. つまり懸案が解けたという以上にどれだけ意味があるのかということがよく分からない. そこで開発された方法がきっといろいろ役に立つんだろうとは思うのですけれどもね.」
「リーマン予想だって解析学の自然な発展によって遅かれ早かれ解けるでしょう. しかしそれが10 年早 く解けようが,50年後になろうが, たいした問題じゃないと僕は思うのです. 要するにそういうことが扱える程度に. 解析学の内容が豊かになったことのほうが大事だろうと思うのです.」と述べます.
個々の未解決問題が解けるよりも数学の内容(それは言葉としての表現力と思われます)が豊かになることが重要であるといいます.


 数学が発展すると,様々なものを数学で表現し世界観を変えることができるようになります.
これはセザンヌの「りんご一つでパリを驚かせたい」に通じるものです.
もちろん,言葉と言って も,俳句から長編小説まで、文学に色々なものがあるように,数学にも色々な言葉があってよいと思います.



木の芽吹き素数が二つ踊りたる     茂樹

邨(むら)の川流れてオイラー春うらら  茂樹




【参考文献】
[1] セザンヌ 「セザンヌ:パリとプロヴァンス展」 2012年 国立新美術館
[2] 志賀直哉,「暗夜行路」 新潮文庫
[3] 佐藤幹夫,杉浦光夫 「数学の方向(ⅰ)(ⅱ)」 数理科学 359(1993) 56-65, 360(1993) 55-63



数学エッセイへもどる  >>

↑ PAGE TOP

inserted by FC2 system