松谷茂樹のホームページへようこそ 

再生への数学 第11回

「物理と数学のフォークロア」より 

「理系への数学」2012年7月号(現代数学社), 二宮暁(ペンネーム)


 ちょうど一年前,東北地方太平洋沖地震とそれに伴う東京電力福島第一原子力発電所の事故を前に「自分は何ができるのか」,「本来どうすべきだったのか,そしてこれからどうするべきなのか」と考えたであろう読者を想定して,「いまこそ理系よ 立ち上がれ!」と題してこの連載を始めました.未だ続く悲惨な状況と混乱は,自然の驚異と,科学技術の脆弱性と,科学技術と日常生活との近すぎる距離と,自然科学や科学技術だけでは割り切れない諸々の問題とを浮き彫りにしています.

 震災を機に,同様の視点の議論がなされ,同様の視点の書物も多く出版されました.数学でも,例えば,「数学セミナー」ではシミュレーションの数理について特集を組んでいました[2].[1]は震災前からの企画として,数学と社会との関わり方についての対談をまとめたものですが,震災後,数学のあり方についての議論を追加して出版されました.

 そもそも,21世紀に入って社会やその背景となる価値観が変化し,社会と科学及び科学技術の関わり方自身も,20世紀中盤までのものと大きく異なってきています.それら時代の変革期の問題が,震災を機に炙り出されたのではないかと感じます.

 震災前に遡れば,「現代思想」では,2008年に「〈数〉の思考」について[3],2010年には「現代数学の思考方法」について[4]の特集が組まれていました.[3]では吉田輝善[5]が現代数学のオントロジー(存在論)に触れ,『数学は, 人間の知性の象徴としてアカデミアの中では特別な地位に持ち上げられているにもかかわらず,本当はそのオントロジーが曖昧である』と述べています. [2,3,4]における議論は日本で著名な専門家によるもので,読み応えがあり,議論もとても深いものです.それでもどこか取りこぼしがあるかもしれない,と感じるところがあります.それは,21世紀に入って,また特に震災後,「専門家に任せておけば全てが巧くゆく」という神話が崩壊しているという背景があるからだと思います.



 本連載は,今後も少し遠くから,そしてより広範囲な視点から「再生への数学」について考えたいと思います.それは震災の被災地やそれを含む日本の再生への数学についてであり,21世紀の科学や科学技 術の再生への数学についてでもあると考えています.



 今回のテーマは大学における数学と物理のフォークロアについてです.

 大学で教わる数学や物理にはフォークロアが存在すると考えています.ここでいうフォークロアは「とんでも科学」という意味ではなく,大学に存在する民間伝承のことです.民間伝承とここで称するのは,それらが文字として明示されないまま伝わってゆくからです.

 例えば「ガリレオの相対性原理は常に破れている」という現象論的事実の伝承のことです.この主張をそのまま認めてしまうと天動説に舞い戻ってしまうので,大学では決してこうは教わりません.その代わりに「散逸」,「無限遠点の処理」,「因果律」,「熱浴のため」など少し難しい言葉で言い換えます.ガリレオの相対性原理は等速運動の同等性を主張します.これは,絶対的な速度という概念に意味がないという主張です.相対速度として自由な運動であれば,相対速度零と相対速度非零に本質的な区別はありません.つまり,どんなに高速であろうが等速運動であれば同等だというわけです.エネルギー 的にはどんなに高エネルギーであろうが,自由空間であれば区別はないのです.

 ところが現実は,(相対)速度が大きすぎると不安定であり,時間的には安定な方向,相対速度が小さい方向に変化します.それは,観測系の質量が対象に対して桁違いに大きく,対象との摩擦等により,つまり散逸と呼ばれる微小な相互作用により,観測系への(熱となる)エネルギーの流れが起きるためです.

 ガリレオがやったように自然を理想化して記述した方程式や法則を現実の世界に適用する際に,「エネルギーが高い(速度が速い;周波数が高い)ものは不安定である」とし「時間発展は『安定なもの』になるように選択される」とする「記述できなかったもの」を考慮することは極めて重要です. 「エネルギーが高いと不安定」は「静力学」の原理ではありますが,ガリレオの相対性原理をベースとしたハミルトン力学では最小化するのは作用積分なるもので,エネルギーではありません.ハミルトン力学系の一種であるマクスウエルの電磁気学の中にも,ハミルトン力学系を変形した量子力学の中にも「エネルギーが高いと不安定」という原理は内在しません.それでも個々の問題を解く際に(つまり現実への適用の際に) 最も重要な指針として,暗黙の了解である「エネルギーが低いものを選択する」という概念が提示されます.  「(様々な高次の相互作用や取り込まなかった効果を考慮することにより)ガリレオの相対性原理は常に弱く破れている」とするのは,物理の大きな現象論的な原理です.そもそも,物理学は自然現象を表現することを目的とする現象論的学問ですので,この一見場当たり的な思考は極めて正統的です.しかし,それは教科書には明記されないまま師弟へと受け継がれる,物理学のフォークロアなのです.それが,数学者が物理を学ぶ際の最大の障害となっていると 思っています.



 他方,数学においてもフォークロアがあると感じています.[5]では『そんな数学者たちが少しずつ先生から弟子へと数学の考え方を伝えてゆくのだが,……必死でいろいろな人の論文を読んでもさっぱりわからなかったことが,直接先生に話すと途端に「わかった」りすることもある.数学ははっきり白黒がついている厳密な学問だと思われているけれども,他の文化と同じでどうも曖昧に伝承されているのであ る.』と述べています.数学のフォークロアとは,例えば,代数の問題におけるいくつかの例であり,定義や定理の背景となった動機であったりします.教科書には掲載されることなく師弟へと受け継がれて るという意味でフォークロアであるのです.
 柳田國男
 卑近な例を挙げるならば,「数学には『微細』という際の基準となる大きさが全く存在しない」という事です.これは,物理現象や社会現象を扱う際と比べれてみれば極めて奇異なことです.固体物理なら原子サイズの,建築物ならばミリメーター単位の,暗黙の内に定まるはずの「小さい」という概念が,数学には存在しません.そのためεーδや位相(topology)の概念の導入が必要であるというその前提がフォークロアなのです.

 ガリレオは1610年のカロシロへの手紙の中で「書きとどめておくことだ.言葉を風のまにまにまかせてはいけない」[6]と書いています.本来,書くべき事が書かれない事が問題であるように思います.


 フォークロアは「こんなことも知らずに,今この場所にいるの?」という立場で提示されますので,学生はたじろぎ,慣れることで言葉にしないまま研究者となり, 伝承されます. それらを外部から眺めることで言語化し,書きとどめることが求められているのです.

 それは一部で近年流行の「AならばB」という対処療法を繰り返すことで考え方の受け流し方を身体で覚えるというような事とは,大きく異なるのだろうと思います.それはきっと柳田國男が東北の村々で行ったことに似ているのだろうと感じています.




【参考文献】
[1] 数学セミナー 特集:シミュレーションの数理 2011年12月号
[2] 砂田 利一, 長岡亮介, 野家啓一 「数学者の哲学+哲学者の数学―歴史を通じ現代を生きる思索」 東京図書 2011年
[3] 現代思想 特集:〈数〉の思考 青土社  2008年11月号
[4] 現代思想  特集:現代数学の思考法 数学はいかにして世界を変えるか  青土社 2010年9月号
[5] 吉田輝義 「類体論と現代数学[ 3」」  138-153
[6] 豊田利幸 「世界の名著26 ガリレオ」 中央公論社 1979 年



数学エッセイへもどる  >>

↑ PAGE TOP

inserted by FC2 system