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再生への数学  第8回

「不完全性定理と俳句」より 

「理系への数学」2012年2月号(現代数学社), 二宮暁(ペンネーム)


 19世紀末から始まった数学における厳密化,公理化の流れの中で1931年ゲーデルは 不完全性定理を提出します. その第一定理は次のようなものです.

第1不完全性定理 : 関係や関数が論理式や対象式により帰納的に表現できる公理系が, ω無矛盾であ れば,証明も反証もできない論理式が存在する.

ゲーデル ω無矛盾は難しい概念です.一言で表現する事はできませんが,その定理はノントリビアルで矛盾のな い(有限個の公理からなる)公理系では証明も反証もできない命題が必ず存在する と読めます. 同時に「厳密に概念を定め,表現しようとすると言葉(公理)が無限 に必要」とも解釈できるように思います.



他方,俳句は最も短い文学と呼ばれるものです. 日本語を母国語にしている人が俳句を読めば,ある 風景を想起することができます.例えば,

  春の海 ひねもすのたり のたりかな 蕪村

に対して春の海を前にゆっくりと過ぎる時間ののど かな風景を目に浮かべることでしょう.
 それでも,その短さ故にその意味するものは,と てもあいまいになります.海は何処の海なのか,す こし汗ばむほどの暖かい晩春なのか,寒い冬を終え た肌寒いくらいの早春のきらめきなのか,峠から遠 目に見たものなのか,漁村の匂いを感じながらのも のなのか,何も定まりません.それらは読者個々人 の経験により定まるのです.



ソシュール ソシュールは19 世紀末に記号論を構築し[2],シ ニフィアン(表現するもの)とシニフィエ(表現される もの)は分離不能であると主張しました.
 例えば,「狸」なるものが分類上存在しているのでは なく,「狸」という名と「狸」という実体が同時に存在す るのです.日本人ならば,犬と狸の差異は理解でき ますが,英語圏では,狸は「raccoon dog」と言って, 犬の一種となります.日本語での「狸に騙された」は 英語圏では「犬の一種に騙された」と理解され,その 文化的背景まで伝わることはありません.
 また,日本語では米と御飯と稲を使い分けますが, 英語のcooked rice やrice field はrice の状態の差に 過ぎません.例えば,「稲が米となるのです.」とか「お いしいごはんだ.米がうまいんだな」は英語圏では 無味乾燥な文となると思われます.他方,barley(大 麦)とwheat(小麦)は日本語では同じ麦の一種とし て認識されます.英語圏のrice と同様の事が麦に関 して,日本語でおきるのです.
 つまり,言葉は文化から離れて概念を伝えられな いのです.「太陽」と「お日様」は同じ対象を表します が,使われる場面が全く異なります.太陽とお日様 という2つの名前の存在は,名前が対象に付随して いるのではなく,その信仰や慣習や文化や個人の経 験と共に存在している事を意味します.
 記号論では「表すもの(言葉)と表されるもの(意 味)とは不分離のまま同時に誕生する」と考えます. 言葉によって表し得るものが限定され, 表現した い事を厳密には言葉では伝えられないのです. ソ シュールは,その事実に気づき,書を著すことなく この世を去りました.残ったのは彼が行った一般言 語学概論の講義録でした.
 記号論でのシニフィアン(表すもの)とシニフィエ (表されるもの)は双対なものです.例えば量子力学 での運動量と位置のようなものです.表されるもの を正確に定めようとすると表す言葉は発散し,表す 言葉を少なくすると表されるものが発散するのです. 前者が不完全性定理に,後者が俳句に対応している と考える事は自然なことのように感じます.厳密の 極限と,あいまいさの極限です.


 ヒルベルトは公理主義を徹底したものとして「『点』 や『線』を『机』や『椅子』と呼んでもよい」というよう な事を述べました[3 ].不完全性定理の洗礼のお陰 でしょうか,数学と言えど,先天的な言葉の呪縛か らは逃れられないと考えるのが今では自然と感じら れているようです.小平は線は定規で引いたもの, 円はコンパスで書いたものという視点が重要である と述べています[3 ].
 私が小学四年生のとき に,「線は太さがないもの だ」という事を知って感動 し,学校の友人にそれを 話した事があります. そ の時はその友人も感動し 賛同してもらえたのです が,しばらくして「線に太 さがないというのは嘘だ」 と言われました. 友人が 職人である父親に聞いたところ「線には太さがある事 が重要だ」と言われたというのです.「電線も太さが あるし,鉛筆の線だって太さがある.角材に線を引 いてそのどちら側にノコギリを入れるかで,うまく いったり,うまくいかなかったりするのだ」と.当 時,私は真理は一つだと信じていたので,自分の 主張をゆずらず,子どもでもあったので言い争いと なってしまいました.少し苦い思い出です.
 日常生活における線は数学的な線ではありません. 中学での幾何の線と日常での電線等の線とを同一で あると誤解しても,日常生活やある程度の幾何の問 題は,なんとか対処できるのも事実です.少なくと も,小学生,中学生レベルでは「線は定規で引いた もの」と捉えて,そういう円や線の対応関係(つまり 幾何の定理)を理解した後に,線の厳密な定義を理解 してゆくことが大切だと思います.
 このような構造は算数における『りんご3つとみ かん2つで果物は幾つか』という問いの状況と似てい ます.りんごの王林とりんごのふじは違うし,大き なりんごと小さいみかんを同等に数えるのも違和感 があるかもしれません.この問いも見方によっては, 同一性とは何か等の高度な内容を含んでいます.も ちろん,極めて初等的で小学生にとってよい問いで もあるわけですが.
 同様の事が科学や技術の中でも内在しています. 卑近な例としては,インチの文化とセンチメートル の文化です.インチで書かれた図面をセンチメート ルと誤解して部品を作ったところ,本体と合わせよ うとしても合わなかったという話はよく聞きます.
 数学でも,微分幾何における微分多様体と代数幾 何の代数多様体はかなり様相が異なっています.多 くの共通点もあるために誤解をしても,ある程度, それらの定理は理解できます.実際,どちらも多 様体と略すので,誤解したまま定理を理解している 研究者が居たりします.物理でも,「第一段階は粒子 (有限自由度)に対する量子化で第二段階は波動(無 限自由度)に対する量子化をする」という意味の第二 量子化を「一回量子化する事によって得られた波動関 数を二度目量子化する」と誤解しても,場の理論の 計算はできたりします.
 どちらも名前がもたらす効果です.
 数学の厳密性を求めるゲーデル的な立場と,感覚 に根ざした意思疎通としての俳句の立場とが,これ らの事実を象徴しているように思います.数学を言 葉とするという事は,記号論等が提示した言葉の呪 縛の上に立つことであると認識しなければなりませ ん.
 他方,圏論による高層論理など,コンピュータ言 語の発展にも弱くリンクして,論理は現在も発展し ています[4 ].いずれにしても数学の表現力の限界 を感じながらも,もうすぐ震災から1年をむかえる にあたり,数学の言葉としての可能性を信じたいと 思います.

   ふたつみつ素数をなぞり年明ける 暁

参考文献
[1 ] 前原昭二 数学基礎論入門 朝倉書店 2006 年
[2 ] 内田樹 寝ながら学べる構造主義 文春新書 2002 年
[3 ] 小平邦彦 幾何への誘い 岩波 2000 年
[4 ] 清水義夫 圏論による論理学 東大出版 2007 年



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